「ん?どうした?りり子ちゃん、なんかぼんやりしちゃって。酔った?」
優しく一樹さん尋ねられたとき「・・・あのね、実は・・・」と、そこまで言葉が出かかった。
そこまで言って、私はグラスのワインを飲み干した。カウンターの上には、食べ残されたカマンベールチーズとクラッカー・・・散らばったそのクラッカーのかすを紙ナプキンで、ひとところに集める私に
「言いたいことなら言って。でももし、迷っているんなら言わない方がいいよ」
と一樹さんが言った。
「あの・・・一樹さんみたいないい男で、売れっ子の芸術家でお金もいっぱいある人に、付き合ってる女性がいないなんて、考えられないし・・・て、ちょっとね・・・」
わざとこんな思わせぶりな言葉を吐いた私は、まだ『わかれさせ屋』を引きずっていると思った。
そしてまた健太のことが脳裏を掠めた。一樹さんは、それには応えず
「出ようか」
と言って、私の肩をポンと叩いた。
私たちがこれから、ホテルに向かえば、そこがラブホテルでも、シティホテルでも、これで私の仕事は無事終了だ。健太は抜かりなくそれをカメラに収めるだろう。そして、離婚。
私は、このまま一樹さんと付き合い続ければいいのである。もちろん別れさせ屋は、これが最初で最後である。
青山のその店を出ると、一樹さんは、タクシーを拾った。
「どこへ行くの?」
と尋ねるより先に、彼が口にしたその場所は、なんと私の住むマンションだった。
「時々一人になりたい時のために借りている部屋があるんだ。そこへ僕以外の人間が来るのは君が初めてだ」
口説き文句はもうそれだけで十分だった。私は仕事の使命などすっかり忘れて、今をときめく芸術家に選ばれたことに酔いしれていた。
そこが勝手知ったるエントランスだと悟られないように気をくばりながら、何気ない風を装って、外に目を向けた。健太はいないようだ。マンションの前は車一台がやっと通れるくらいの路地。健太も隠し撮りの場所がないはずだ。
「これからもずっとここで?」
と、私は言ってしまってから、バカなこと聞いてしまったと焦った。
「ごめんね私、変なこと聞いちゃった。・・・実はね・・・私・・・」
もういっそのこと『別れさせ屋』と言ってしまおう。とその言葉を口にしようとしたその瞬間、言葉は一樹さんの
口の中へと吸い込まれていった。彼の部屋の前だった。
いったん、軽く重なり合った唇を離すと、一樹さんは私の身体をきつく抱きしめ耳元でささやいた。
「今度、君を描かせて」
ことが性急すぎるとは思わなかった。
恋をしている私が、その時自分でなんかとてもいじらしくいとおしく、それはまるで、初めてヨチヨチ歩きの赤ん坊が立ち上がるときのようで、(がんばれ、がんばれ)と私は私にエールを送っていた。
素直な自分のままで恋をしたことが無かった私のこれが等身大の恋であると、確証が持てたわけではないが、少なくとも、これまでの何とも、誰とも違う気持ちで相手に自分を委ねていた。身体も心も。
数日後、私は健太にすべてを話した。もちろんもう、『わかれさせ屋』を辞めるということも。健太は黙って最後まで聞いてから
「良かったな。ちゃんと恋できるようになって」と、それだけ言った。
「それだけ?他には何も言わないの?」
と私が、そう言うと健太は
「もしあいつと別れたら、いつでもまた、引き受けてやっからさ」
その言葉に「それはそれは、ご親切に・・・」と私。
こんな軽口の後、私たちは笑いあってさよならと手を振りあった。
あれから、健太に一度も会っていないが、近々こちらから電話してみようと思っている。『別れさせ屋』に本気で就職したいからだ。
それはつまり・・・一樹さんとは別れてしまったということ。
一樹さんは奥さんの元へ戻ってしまった。
彼にとって私はほんの気まぐれの遊び相手でしかなかったようだ。結局、年上の姉さん女房の下でしか生きられない、おぼっちゃん芸術家なのだ。
彼は借りていた部屋も引き払った。スケッチしてくれた私の絵だけ残して。私は、彼のいなくなった部屋でその絵を抱きしめて泣いた。そしてその後、しあわせだったその絵の頃の顔を真似て、少し笑ってみた。
鏡とにらめっこしながらやっとその笑顔が作れるようになった私は自分で自分にこう言った。
「うん、私はまだ大丈夫!」と。
こんな私を、健太は本当に快く迎えてくれるだろうか?
もし健太が私を許してくれたら、真っ先にこう誓おうと思っている。
「もう、マルタには絶対惚れたりしません!」と。そう。
おわり
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「別れさせ屋を試しに1回だけやってみる」バージョンはいかがでしたか?
明日からは「別れさせ屋を引き受けない」バージョンを公開していきます。
お楽しみに!